澤熊講師と行く
2010年12月14〜15日
関東の名城を訪ねて
八王子城・鉢形城・高崎城・箕輪城・金山城・足利館



金山城跡
群馬県太田市金山町
金山の頂上にある山城で、現在は本丸跡とされている地点に新田神社が祀られ
背後の斜面には石垣の一部が遺存しており、往時のようすを現在に伝える。
関東平野を一望に収めることができ、西方は一段低くなっており「日ノ池」「月ノ池」。
西南には二の丸跡、三の丸跡と呼ばれる曲輪が残り、これら曲輪につながる尾根
群には堀切が設けられています。
金山城跡の沿革
 
●1469年(文明元年) 新田一族であった岩松家純によって築城される(新田義貞築城説も
 あるが、最近行われている発掘調査ではその時代の遺構や遺物は検出されていない)。
 以降、1528年(享禄元年)に由良成繁・国繁親子、1584年(天正12年)には北条氏と主は変
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 わったが、上杉謙信の攻撃を退けるなど、関東七名城の一つとされる。
 ●1590年(天正18年) 豊臣秀吉の小田原征伐の際攻撃を受けて落城、こののち廃城。



新田神社
1875年(明治8)、金山城本丸跡に建てられた神社で、新田義貞公が祭られています。
新田義貞(上野国新田荘(今の群馬県太田市)出身)
1333年に足利尊氏の京都六波羅攻略に呼応して挙兵。小手指原の戦い、分倍河原の戦いで北条方を
撃破して鎌倉へ攻め込み、激戦の末に攻略。これにより北条高時以下は自害し、鎌倉幕府は滅亡する。
上洛した義貞は、後醍醐天皇の建武政権下において武者所頭人という要職に任じられ、また上野・越後
播磨の国司を兼任した。
1335年、建武の新政に不満を抱いて関東に居座った足利尊氏の追討を命ぜられて出陣。しかし関東目前
の箱根・竹下の戦いに敗れて京に戻る。京都を中心とした畿内での戦いには勝利して、足利尊氏を九州に
追い落としたが足利方の赤松氏が籠る白旗城攻めに時間を費やし、その間に再起した尊氏に湊川の戦い
で敗れた。
再び京都で足利方と戦うも戦況は芳しくなく、後醍醐天皇は和議を結んでしまう。行き場を失った義貞は、
皇太子恒良親王を奉じて越前に下向して再起を図る。
しかし国府は斯波高経に抑えられており、拠点のひとつ金ヶ崎城も高師泰らの攻撃で落城。恒良親王は
捕らえられ、義貞の長男義顕は自害。
その後、義貞は徐々に巻き返して斯波高経に対して攻勢に出るが、1338年越前灯明寺畷で戦死を遂げる。




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