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達磨寺〜高崎宿(高崎城)
昔、碓氷川のほとりに観音様を祀るお堂がありました。
 ある年の大洪水のあと、村人たちが川の中から後期のある古木を引き上げて霊木として
観音堂に納めておきますと、延宝八年(1680)一了居士という行者が霊夢によって訪れ、
信心を凝らして一刀三礼、達磨大師の座像を彫り上げ観音堂にお祀りしました。
 この噂は「達磨出現の霊地・少林山」として近隣に広まりました。
 その頃の領主・酒井雅楽頭忠挙公は前橋城の裏鬼門を護る寺として、水戸光圀公の
帰依された中国僧・東皐心越禅師を開山と仰ぎ、弟子の天湫和尚を水戸から請じて、元禄
十年(1697)少林山達磨寺(曹洞宗寿昌派)を開創しました。
 享保十一年(1726)水戸徳川家から三葉葵の紋と丸に水の徽章を賜い、永世の祈願所と
されました。(達磨寺の栞より)



高崎宿


天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』
によれば、高崎宿の宿内家数は837軒、本陣
および脇本陣は設けられておらず、旅籠のみ
15軒が設けられ、宿内人口は3,235人。

 


高崎城
お堀の周辺は高崎城址公園として、約4.9haが整備されていますが、現在城址は市街化が進み、
超高層21階の市役所や音楽センターなど公共施設が多く並びます。
秀吉の小田原攻めの後、関東には徳川家康が入部し、家康の関東入部とともに箕輪城主となっ
ていた井伊直政は、慶長2年(1597年)家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築いた。
この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とさ
れた為です。翌、慶長3年(1598年)に直政は箕輪城から築城中の高崎城に移り、直政は当地を
「高崎」名付けたとされています。
城跡公園と隣接する高崎公園から、高崎観音が望めます。
観音山の山頂、標高190mの地点にあり、建立当時は世界最大の観音像でありました。



今朝7:00新大阪駅集合から、結構.慌ただしい一日でしたが
6時過ぎには高崎駅前のワシントンホテルにチェックイン




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