2009年12月17日 
全八回シリーズの第B回目

御油宿〜赤坂宿〜岡崎



徳川家康生誕の城、
岡崎城

菅生川と矢作川の合流地点にある龍頭山という丘陵を利用して造られています。元は龍頭山の砦として三河国仁木氏の守護代であった西郷稠頼、そして その子・頼嗣が北方に対する防御として築城したものであります。

岡崎城の歴史・沿革
1531年(享禄4年) 松平清康(徳川家康の祖父)が城主となり、城郭を整備して勢力を広げます。
1542年(天文11年) 城内で竹千代(後の徳川家康)が生まれる。
1549年(天文18年) 松平広忠が家臣の謀反によって殺害されると、岡崎城は今川家の支城に.・
1560年(永禄3年) 桶狭間の戦いで今川義元が敗死すると松平元康(後に家康、)は岡崎城を
取り戻し、今川家から独立する。
1570年(元亀元年) 徳川家康は本拠を浜松城に移し、岡崎城は子の松平信康が入る。しかし
信康は謀反の疑いをかけられて自刃。以後、重臣の石川数正、本多重次らが城代を務めた。
1590年(天正18年) 家康が関東に移封となると.豊臣家臣・田中吉政が入り家康に対する抑え
の拠点の一つとして吉政は城を拡張し、又、城下町の整備も積極的に行い、岡崎の郊外を通っ
ていた東海道を岡崎城下町の中心を通るように変更し岡崎の二十七曲がりといわれるクランク
状の道に整備され、現在の岡崎城の原型を造った
1602年(慶長7年) 徳川氏譜代の重臣である本多康重が上野国白井より5万石で入城。以降、
徳川政権下では家康誕生の城として重要視され、譜代大名が歴代の城主を務めている。


天守閣内


岡崎城公園
岡崎公園内には、電話ボックスの屋根にお城が載っていたり、からくり時計があったりと、お城にまつわる展示物がいろいろと設置されています。
からくり時計は、9時から5時までの間、毎時0分と30分にからくり時計の扉が開いて、人形が出現して能舞台を踊ります。・・・



三河武士のやかた《家康館》
東海地方は、名だたる武士を輩出した地域として知られています。尾張の織田信長、豊臣秀吉に三河の徳川家康。前者2人は戦国の世を駆け抜けた武将だが、家康は戦国の世を平定し、長く続く江戸時代の礎を築いた人物です。岡崎市は家康生誕の地。国道1号線沿いにある「三河武士のやかた 家康館」には、徳川家の発祥の経緯、関ヶ原の合戦など、徳川家のルーツから戦国の世の終焉までの資料が展示されています。



広重が描く、東海道五十三次絵図の岡崎宿
安藤広重は寛政9年(1797)江戸八重州河岸に生まれ、年少で両親を亡くすと家督を相続し火消同人職につきます。その職にありながら15歳で歌川豊広に入門、浮世絵を学び始めます。そして27歳の時に火消同人を引退し、浮世絵師として独立します。
天保3年(1832)36歳の夏に、徳川幕府が朝廷へ駿馬を献上する年中行事の「八朔御馬献上」の行列に参加し、翌年このときの写生と印象をもとに「東海道五拾三次」を描き、一躍世に認められることになります。



東海道五十三次の江戸品川宿から数えて38番目の三河国の宿場・岡崎宿を歩きました、
0二十七曲がり地図をクリックすると大きくなります。

徳川家康公が関八州の太守として駿府城から江戸に入ったのが
天正18年(1590)8月。同年10月には、豊臣側の田中吉政が
岡崎城に入城して城下の整備にとりかかりました。
吉政は、矢作川に初めて橋をかけ、菅生川の南にあった東海道を
城下へ引き入れました。
城下の道は、外敵には城までの距離を伸ばし、間道を利用して防衛するこ
とができる屈折の多い道が常で、岡崎はその典型。これが二十七曲りです。

吉政は10年かかって二十七曲りの城下町を造ったといわれていますが、
徳川の安定政権が続くと防衛の意味もなくなり、城下町・宿場町として栄え
ていきました。
二十七曲りは、欠町、両町、伝馬通から籠田町を抜け、連尺通、材木町、
田町、板屋町、八帖町、矢作橋とつながっており、現在のまちなかに、
二十七曲りを示す碑を見つけることができます。
我々は時間の都合で、二十七曲りはアキラメて、六曲りだけのでしたが.



次は4回目・豊川稲荷です。




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